柴田堅太郎・中田裕人『カーブアウトM&Aの法務』(中央経済社)を読むことが、大手法律事務所等への就活準備(ディールロイヤーとしての適性についての自己分析を含む)の定番本になるだろうと思った話
予備試験合格者から「企業法務系事務所への就活に向けて何をしたらいいですか?」とか、大手法律事務所の内定を得ている司法修習生から「裁判所から誘われているが、自分が裁判官と企業法務弁護士のどちらに向いているかをどうやって判断すればよいか?」という相談を受けることがある。
これまでは、相談者の関心に即して、ケースバイケースでコメントを考えていたが、今後は、しばらく、「とりあえず、『ストーリーで理解するカーブアウトM&Aの法務』を読んでみたら」というアドバイスを繰り返すことになりそうだ。
『ストーリーで理解するカーブアウトM&Aの法務』を読んで、「こういう仕事はやりがいがありそう!」と思えば、就活でも、迷うことなく「M&Aをやりたいです!」と回答すればよい。
この書に繰り返し出てくる「DD」とか「SPA(株式譲渡契約)」とか「レップ(表明保証条項)」という専門用語や「多額の余剰現金から、アクティビストの典型的な標的ともいえる企業」といった実務の常識を理解しておくだけでも、面接に出て来たパートナーから具体的な話を引き出すことに役立つだろうが、この本を読んだ上で、
「あ、自分はこういう仕事をやってみたいかも」
と思えるかどうか?を、自分自身で考えてみることが超重要だ。
ストーリーを読めばわかるとおり、M&Aには、法廷ドラマのような「新たに発見された証拠による大逆転劇」があるわけではない。以下、ネタバレを含むことをご容赦いただくと、買主側からの要求が高すぎると考えた売主側の執行部は、一旦は、ディールブレイクを視野に入れる。しかし、社外取締役から「(話を遮って)君は会社と株主を守るのと、大事なお客様」「のご機嫌を損ねて怒られないようにするのとどっちが大切なんだ!」と怒られて、条件交渉では全面的に譲歩して早期に最終合意を取り付けるように、という(カッコ悪い)方針転換がなされたおかげで、ディールは前に進むことになる。
ストーリーの細部には、一々、とんでもないリアリティがある。弁護士にとっては、ストーリーパートをひとつ読み進める度に「あぁ、そういえば、あの案件ではこんなことがあった・・・・」と過去の案件の思い出に浸ってしまうため、全然、ページを読み進められないこともあるだろう。
買主側弁護士が、売主から出てくるはずの最終契約のドラフトが出て来るのが遅れて、「結局ビッドレター(意向表明書)の提出期限のたった1週間前に届くとは…。買主候補者側の検討期間をいったいなんだと思ってるんでしょうね…」と愚痴る場面も、条件交渉で、売主側から「このような規定が設けられていることがあるのは存じ上げておりますが」とか「ご趣旨は理解しましたが」という枕詞を置きながらも、その次に要求を拒絶する文言が続く場面とか、せっかく売主側の方針が決まったところで、メインバンク出身の社外監査役が、「善管注意義務違反」を理由として異議を述べ出して来て、善管注意義務違反がないことの法律意見書が求められたり、それら困難を乗り越えて、やっと公表できる状態まで来たのに、出所不明のリーク記事が経済紙に掲載されて対応に追われたり、と、このストーリーがフィクションであると分かっているのに、「あぁ、こういうのって、本当、大変なんだよな」と、一々、過去の案件の記憶を喚起させられてしまう。
M&Aロイヤーの仕事をバラ色に彩って宣伝する本ではないため、この本を読んだ予備試験合格者や修習生のみんながみんな「M&Aロイヤーになりたい!」という希望を膨らませるわけではなく、「自分はディール系は向いていないかも」「やっぱり勝ち負けがはっきり出る裁判を専門的に扱いたい」という思いに気付かされる者もいるだろう。
ただ、「エピローグ」に描かれたクロージング・パーティーの風景にあるとおり、大変なプロジェクトを一緒に体験してきたからこそ、同じサイドにいる側は「戦友」とも呼べるような連帯感を抱くことができるし、相手サイドとの間にも、互いの仕事に敬意を抱けるような関係性を構築することができる。案件を通じて成長する、という言葉の意味を、この本を読んで疑似体験することができる(売主側の法務アドバイザーである蓬莱法律事務所では、ジュニア・アソシエイトである栄倉弁護士は、新人弁護士でまだ経験は浅いながらも、当初からやる気だけを示して「セラーズDDは初めてですが、やってみます」と述べて案件に取り組み始める。そして、エピローグでは「こういうM&Aで、大量かつスピードが求められる作業を、チームワークをもって役割分担で進めるところはこの仕事の醍醐味だと思いました」と語っている。柴田・鈴木・中田法律事務所におけるアソシエイトの成長の姿がモデルになっているのだろう)。
そんな「関係者が多くて想定外のトラブル続きのディールをまとめる苦労の先にある成長」に憧れるならば、裁判所からの誘いを断ってでも、M&Aロイヤーとしてのキャリアを目指してみるべきだと思う。
また、「解説パート」も、きわめて実務的な問題について、きちんとした理論的な整理を示してくれる。全編を通じて、コーポレートガバナンス・コードや経済産業省「事業再編実務指針」といったソフトローが、関係者の行動の指針として参照されているところ、法律上の論点についても、切れ味のよい解説が加えられている(例えば、オークション(入札)プロセスとの関係では、「オークション(入札)方式を採用しなかったからといって取締役の善管注意義務違反に問われるわけではない。売主の取締役としては」「適切に売却方式を検討、判断することが求められるにとどまる」と明快に述べられている。なお、ストーリーパートでは、オークションを行なった後に、最高価格を提示したブレイブ・ホールディングスへの売却について執行部が消極的になった場面で、社外取締役から「ブレイブ・ホールディングスは他の買い手候補者と比べて突出して高い価格を出してきたのだろう?」と詰め寄られて、執行部は方針の転換を強いられる展開となっており、「オークションを行なった以上は、高い価格を無視できなくなる」という現実も踏まえられている)。
「解説パート」の充実振りからは、執筆者である柴田堅太郎弁護士及び中田裕人弁護士が、企業法務系弁護士としてのきちんとした教育を受けて来ており、かつ、その知識と経験を、現在、自分達がパートナーを務める事務所におけるアソシエイト教育で実践して下の世代に還元しようとする姿勢を窺い知ることができる(柴田弁護士は、令和4年・5年の司法試験・予備試験の考査委員(商法)も務められている。商法研究者との親交が深いことも、解説パートの会社法的観点からの理論面の充実に影響しているのだろう)。
追記
柴田堅太郎先生のnote「『カーブアウトM&Aの法務』あとがきのあとがき」を読んでから、読み直すと、ストーリーをさらに楽しめそう!