伊藤眞『民事訴訟法への招待』(有斐閣)が「持ち歩いて通読したくなる本」であると感じた話
伊藤眞東京大学名誉教授は、実務家から最も信頼されている民事手続法の研究者である。伊藤眞教授を強く信頼する実務家のひとりとして、上田裕康弁護士(アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー)の名前を挙げることができる。リーマンブラザーズの民事再生手続の申立代理人を務めていた上田弁護士は、商事法務ポータルのインタビューにおいて、「最高裁で最も良い弁論をするためには、誰にお願いするべきか?」と考えた時に、伊藤眞教授が最初に頭に浮かんだ、と述べている。
伊藤眞教授が実務家から信頼されているのはなぜか?私は、
「ロジック」と「結論の妥当性」の両者を追い求めることに妥協がない
という、伊藤眞教授の姿勢にあると思っている。
一般論として、実務家は、研究者に対して「『ロジック』を一貫させるためには、『結論の妥当性』が損なわれてもやむを得ないと考えているのだろう」という諦めに近い思いを抱きがちである(自分たち実務家は「自己の依頼者が望む『結論の妥当性』を実現するためには、『ロジック』を一部歪めても構わない」と考えがちであるのと裏腹に)。
しかし、伊藤眞教授には、その妥協がない。地裁・高裁の「裁判例」に対して、その結論の妥当性を納得できなければ、精緻な分析に基づく論文を書いて適切な「判例」の形成に向けた情報発信をなされるのは当然のこと、最高裁の「判例」に対しても、これに盲従するのではなく、批判的な目を向けて、より妥当な結論を導ける余地を探ろうと検討を重ねられる。
(「裁判例」と「判例」を使い分けて書いたが、『民事訴訟法への招待』3頁にはその違いについても丁寧な説明がなされている。)
このような「妥協しない姿勢」を持つ伊藤眞教授だからこそ、体系書は改訂を経る度に「注」も充実して、『民事訴訟法(第7版)』は800頁を超える(ので持ち歩くのに不便である)。
これに対して、今回、出版された『民事訴訟法への招待』は、300頁超の分量にすぎない。この本を手に取ってみると、やわらかくて、とても手に馴染む。「持ち歩きたくなる本」である。
そして、本を開いて読んでみると、前から順にスムースに頁をめくることができる。「です」「ます」の口語体で書かれている上に、「注」もない。伊藤眞教授による民事訴訟法の入門講義を受けているような感覚に陥る。「通読したくなる本」である。
それでは、このような「ハンディさ」や「読みやすさ」を実現することと引き換えに(『民事訴訟法(第7版)』と比較して)何が犠牲にされたのだろうか?
確かに、「詳しい説明」は省略されている。ただ、「正確さ」や「問題の所在」が失われているわけではない。ここが、司法試験予備校から出版されているテキストとの大きな違いである。
司法試験予備校の特色は、「効率的に合格答案を書けるようにする」という目的にある。議論を単純化して「わかったつもり」にさせるためには、「多少の不正確さ」や「知識の偏り」も容認する「割り切り」が求められる(のだろう)。
また、「表現の正確さ」にも敏感な実務家がテキストを執筆しようとすれば、(自らの言葉で簡潔な記述を正確に行う自信がないために)権威ある書籍の該当箇所を抜き書きしてつなげた「読みにくい文章」になってしまいがちである。
その点、『民事訴訟法への招待』を開けば、民事訴訟法の基本的な考え方について、伊藤眞教授の言葉で説明を受けて整理することができる。司法試験予備校の論証集から得た「借りものの言葉」だけで「旧訴訟物理論」に基づく起案してきた受験生でも、伊藤眞教授の言葉で「裁判所の適切な訴訟指揮があれば、旧訴訟物理論の問題点とされることも適切に解決できると思われます」「判例の説示は、旧訴訟物理論を前提としていると解され」「実務も旧訴訟物理論に沿って運用されています」(『民事訴訟法への招待』79頁)と読めば、答案の文章に自信の裏付けを得ることができるだろう。
『民事訴訟法への招待』の誠実なところは、「全体像を把握すること」を目的としつつも、「合格答案が書ければ、わかったつもりで騙して終わり」にしないところである。例えば、「証拠調べの手続」で項目として掲げられている「弁護士会照会など」は、弁護士法上の手続なので、「入門書においては、条文(弁護士法23条の2)だけ示しておけば足りる」という発想にもなりがちである。しかし、『民事訴訟法への招待』では、「照会に対する回答義務をめぐる近時の判例があります(伊藤475頁)」と付記されており、読者が「これはどういうことだろう?」という疑問を抱けば、「より深く知る」ためには次にどこを参照すればよいかが具体的に示されている。
「法律をやさしく解説する」ということは、難しい論点を無視したり極端に単純化したりして誤魔化すことではなく、未解決な問題が残されていることを示して、学習を次の段階へと橋渡しをすることなのだ、ということを教えてもらえた気がした。